乱調
――…お前に将など務まるわけがない!
違う!
――…今に死ぬのが落ちさね。
違う!!
――…お前に才など無いんだよ!
違うっ!!!
は夕日に染まる空を眺めながら、柱に寄りかかっていた。
寝室の前の縁側である。
この向きでは西日が強すぎると思っていたが、
最近はその西日をぼんやりと眺めている。
反発して家を出たのは随分前のことである。
その頃の母の言葉が今になって胸に沁みる。
確かに
に将は務まらなかったし、才は無かった。
生き残ったのは戦場に言うほど出なかったからである。
己に才は無く、将にもなれず、
何の役にも立たないと悟ったのはつい最近のことである。
それまで掲げていた目標に手が届かぬと思うと心が折れた。
最初は肩を並べていたはずの幸村は、
今は手の届かぬ随分先へと行ってしまった。
(私は何のためにここに居るのだろうか)
ぼんやりと思う。
答えはわかりきっている。
何のためでもないのだ。
ただ、だらだらと生きながらえているだけなのだから。
「お、お館様!?」
家事を任せている侍女の声が聞こえた。
何を素っ頓狂な声を上げているのだろう。
お館様がこんなところに来るわけが無い。
どすどすと荒い足音が近付いてくる。
お館様の名を騙らずとも、
はここから動かない。
何より、そんな細工をせずとも
などすぐに討ち取れる。
討ち取る価値も無いけれど。
そう思うと笑えた。
「
よ。
気鬱と聞いたが、今すぐ魂が抜けていきそうな顔をしておるな」
「お……お館様!?」
背後から聞こえた声は本物のお館様の声で、
は侍女と同じ素っ頓狂な声を上げた。
信玄は
の食が細いと聞いていたらしく、瓜を持ってきた。
どこから漏れたのだろうか。
ただ体調が優れないとだけ伝えていたはずなのだが。
「さあ、たんと食え」
「頂いておりますよ」
瓜は侍女の手によって切り分けられていた。
よく冷えている。
しゃくりと歯ざわりも良いが、
なんとなく吐いてしまいたい気持ちにもなる。
「……ですから、その、お館様も召し上がられては?」
「そうじゃな」
信玄は瓜を一切れつまんで、口に放り込んだ。
「うまいの」
「はい」
は頷いた。
「わざわざお越しいただいたのは如何様な理由にございましょう?」
「見舞いじゃ。
痩せたか」
「そうでしょうか」
は己の体を見下ろしてみたが、
いつもと変わらぬ見慣れた手足があるだけである。
「お主が出て来んと皆調子が狂う。
見たところ変わりないが、来れぬか」
嘘だ。
お館様はいつも優しい嘘をつく。
嬉しいけれども、嘘は嘘である。
「そろそろ、迷惑をかけるのを止めようかと思うております」
「迷惑とな」
「はい。
わがままを言い続けておりましたが、そろそろ分をわきまえて」
「誰が言うた」
「皆様お優しいので、どなたも。
ですが、私も己が身の程をわきまえる頃合かと」
夕焼け空は美しい朱色である。
涙で滲ませるには勿体無い。
「誰がそうせよと言うた」
「どなたも。
私の気持ちにございます」
「逃げるか」
「お館様はいつもお優しいです。
ですが、私はお役に立てぬというのは一番ご存知でしょう」
結局、
は瓜を一口かじっただけである。
すでに手に持っている一切れは温み、べたべたとする。
「ワシはお主を買うておる」
「ご冗談を」
「冗談ではない」
嘘ばかり。
「ならば何故私を戦場へ連れてくださらぬのですか。
私が一番知っております。
役不足であると。
認めたくはありませぬが、それが事実にございましょう!」
吐き出してしまうと楽になれるかと思ったが、そうでもなかった。
八つ当たりであることを自覚しているせいなのか、
ひたすらに苦しいばかりである。
「良いのです、私は役に立ちませぬ。
ですが誰かの邪魔もしたくありませぬ。
ですから去るのです。
いままでうじうじと悩んでおりましたが、
お館様の顔を見て決めました。
どうかお暇をくださいませ」
は瓜を皿に戻して、座り直して、額を床にひっつけた。
「ならぬ」
「何故ですか」
「ならぬものはならぬ」
「お館様、後生にございます。
どうかお暇をくださいませ」
きっと信玄は腕を組み、まっすぐ前を睨みつけ、
いつもの如く厳しい顔をしているのだろう。
戦略的でない逃亡を嫌っていることは承知している。
「……暇などやらぬぞ」
は知っている。
信玄は無理矢理に己の道理を押し付けるような人間ではないと。
戦のときは味方にすら鬼のような形相で無理を言うけれども、
それ以外のときはそんなことはおくびにも出さないことを。
「ワシはお主をどう育ててよいものか、迷うておった。
乱世において力を発揮できるのは幸村よ。
じゃが、お主は治世において力を発揮すると思うておる。
お主は優しいからの」
「……嘘です」
「嘘なものか。
じゃから幸村が手のかからんようになったこれからじゃ、
と思うておったのに暇をくれとぬかす。
絶対に暇などやらぬ。
お主はこれからの世に必要じゃ」
「私に才など」
「己に才有りと思うておる輩の殆どが、才なき者よ。
じゃから顔を上げよ、
」
信玄の大きな手が
の肩に触れた。
顔を見せたくなかった。
涙がこぼれ、床に水溜りができている。
褒められて嬉しいのと恥ずかしいのと、
信じられないという気持ちがごっちゃになっている。
「
」
名を呼ばれて、
は不承不承顔を上げた。
「残るのは泣くほど嫌か」
「……」
「お主がそこまで思いつめておるとは思わなんだ。
許せ」
信玄は頭を下げた。
「お館様、お顔を……」
が慌てると、信玄はすぐに顔を上げた。
「では、残ってくれるな?」
信玄の鋭い視線が
を射抜いた。
主が、見舞いに来て、更に頭まで下げて。
まだ、居ても良いのだろうか。
は頷いた。
信玄が言うならば、もう少し頑張れそうな気がする。
そう思うと、ひっこみかけていた涙がまたあふれた。
それから、
は声を上げて泣いた。
信玄の胸を借りて泣いた。
泣き続けた。
「あの……」
侍女が遠慮がちに声をかけてきたが、信玄は身振りで黙らせた。
は眠っている。
侍女は灯りを置いておずおずと引き下がった。
生気の無い顔をしていたが、きちんと眠ってもいなかったのだろう。
今は泣き疲れて眠っている。
幸村もそうだが、
もまっすぐすぎるのだ。
「まあ、お主には時間があるからの」
信玄は
の髪を撫でた。
これほど自分を信頼している人間をどうこうする訳にもいかないので、
なかなかに苦行である。
添い寝くらいなら許してもらえるだろうか。
ともかく、何とか
を失うことだけは回避できたようだ。
信玄は安堵しながら、
夕日の代わりに浮かんだ月を見上げた。
が居なくて調子が狂う一番の人間は信玄なのである。
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