憧れ
信玄が道場で兵の鍛錬をするという。
はその準備を一手に引き受け、
恙無く鍛錬は終わりを迎えるところである。
(お館様はまだまだお強いんだけれどなあ……)
はそう思いながらため息をついた。
ただの兵士が束になっても敵わないし、
派遣していた忍が各地の領主の技を盗み、持ち帰っても、
やはり本物には敵わないのか軽くいなされている。
が武田軍に居座る理由は信玄にある。
もともとただの兵士だった
は、
信玄が戦場で見せる鬼神のような働きを見て目を奪われた。
大きな斧で数人の敵兵を一度になぎ払い、
竜巻を起して敵を吹き飛ばした。
とにかく豪快な戦いぶりに憧れた。
も重量のある武器に挑戦してみたことがあるが、
どうにもうまく扱うことができなかった。
筋力が足りぬのかと鍛えてみたが、やはりできない。
己には向かぬと気づいたときの気落ち振りは、
友人達がこぞって飲みに誘ってくれるほどだった。
結局以前から使っている一般的な刀を使っている。
筋力をつけたおかげで以前よりは強くなっているし、
その頑張りを認めてもらったおかげでただの兵士からは昇進した。
そのおかげで道場で兵を鍛える信玄をじっくり眺められるのだが、
戦場での彼の姿が見たい。
最後に残っていた一人が吹き飛ばされた。
信玄が床に斧をつきたてたところで、
は刀を持って道場の真ん中に下りた。
「どうした。
お主は今日は入らぬ予定ではなかったか」
「私も鍛えねば鈍るばかりです。
最後にお手合わせを願えませんか?」
信玄は「よいぞ」と笑みを浮かべた。
彼は怠けたり逃げたりすることに対しては厳しいが、
こうして挑みかかる分には胸を貸してくれる。
はお願いします、と頭を下げた。
はもてる力の全てを使って信玄に挑んだ。
しかし、やはり敵わない。
手加減をしてくれているのが分かる。
はじき返されることはなく、ただ防がれている。
続けているうちに
の握力は徐々に無くなり、
ついに刀が手から離れて飛んでいった。
「腕を上げたな」
信玄は満足そうに言うが、
は反対に泣きそうだった。
やはり信玄は強い。
「どうして、お館様は戦場に出られないのですか?
こんなにお強いのに……!」
言葉に迷っていると、信玄の顔は驚きから苦笑に変わった。
「ワシは強いか」
「はい」
「ならば、謙信めを相手に今度の戦も楽しめそうじゃな」
「毎回お館様は川中島にはおいでになりますが、
どうしてその他にはお出でにならないのですか?」
が食い下がると、信玄は斧を置いた。
「
よ。
幸村こそ次の世代を担う若人じゃ。
その若人をさしおいて、ワシが出るべきは川中島以外には無い」
その決然としたもの言いに、
は絶望した。
「では……私も川中島に参りとうございます」
がなぜこれほど信玄の出陣にこだわるのかというと、
彼が
を戦に伴わないからである。
幸村の副官として派遣されたことはあるが、
信玄が出陣する川中島へは足を踏み入れたことが無かった。
「では、誰が留守を守るというのじゃ」
「誰ぞおりますでしょう!
それほど私は未熟者でございますか?」
「未熟者を一人で残したりはせぬ」
信玄は眉根を寄せた。
「お主が優秀な家臣であるから残す。
不服か?」
「不服です!」
「何故じゃ」
「私はこの両の目で戦場で暴れまわるお館様を見たいからです」
少し間を置いて、信玄は声をあげて笑った。
「何じゃ、そんなもの今も見ておったろう」
「戦場で戦うお館様は違うんです!
次こそ間近で見るのだと思っていたのに、ずっと居残りばかり!
かくなる上はお館様に別なる戦場に出ていただいて、
私を伴っていただける機会を増やしていただかねばと」
わはは、と信玄が豪快に笑うので、
居残っていた数少ない兵士達が驚いてこちらを見た。
「お主は前々から面白い女子じゃと思うておったが」
「何ですか」
「間違いなかったようじゃ」
「そんなに笑わなくても良いじゃありませんか!」
「すまぬ、すまぬ」と信玄は口ではいいつつ、笑うのをやめない。
相手が信玄でなければ、
一発殴ってでも笑うのを止めさせるところである。
「傷などついては縁談に差し障るかと思うての」
「かまいません!」
「ならば次の戦、いま少し人選を考えておく。
将として経験を積ませるべきかと考えておったところじゃ」
先ほどまでの絶望や怒りはどこかへ消し飛んだ。
「ありがとうございます!」
「鍛錬を怠るではないぞ!」
「はい!」
が笑みを浮かべつつ返事をすると、信玄は腕を組んで頷いた。
ひとまず信玄が総大将の戦に出られることになった。
喜びで誰彼構わず抱きついてしまいたいところだが、自重する。
年頃だからと信玄の方で遠慮していたが、
は実力的には問題は無いし、次の川中島の楽しみが増えた。
やる気のある若者という点では、
彼女も幸村と等しく次代を担う人材である。
今までになく強い意志で意見してきた
の目。
成長が見て取れるから育成というものは楽しいのである。
それにしても、何故そんな理由で戦場に出たいのか。
この意気込みようでは縁談が遠のくばかりである。
その点は信玄にとっても願ったり叶ったりではあるのだが。
うきうきと軽い足取りで去っていく
の後姿を眺めながら、
(……責任をとるべきか)
と信玄は本気で悩んだ。
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