風に舞う塵を掴む
は松永の気配がする障子を前に、一人煩悶していた。
風魔は
を松永の手の外へ放り出そうとしてくれている。
でなければ脱出の日程を秘密にする意味が無い。
どういう理由なのかは分からないが、
がここを出るにあたって松永は邪魔なのだろうと思われる。
しかし。
その肝心の風魔は、
の部屋に寄り付かない。
よっぽど松永の方が足しげく通ってくれている。
身の危険を感じたときも、
駆けつけてくれたのは風魔ではなく松永だった。
プライドの高そうな、本音を晒すことなどなさそうな、
あの松永久秀が障子一枚隔てた向こうに居る。
そうして
の返答を待っている。
は迷っていた。
「松永様……もう遅うございます」
「だから来たのだ」
松永の声によどみは無い。
彼の視線自体は恐ろしかったが、行動は一貫して優しい。
恐怖はあっても憎いという思いは無い。
「私はただの侍女でございます」
今もあの冷たい視線は健在なのだろうか。
あの顔でこんな言葉を紡いでいるのだろうか。
久秀が
について知りたがっていたように、
もまた久秀のことが知りたくなった。
「私は卿と北条の関係を知っている。
言いたいことはそれだけかね?
そういう些事以外に言うことは無いのだね?
沈黙は肯定と取るよ」
は口に出すべき言葉が見当たらなかった。
小太郎は長丁場だった任務の報告をすべく久秀の私室を訪ねたが、
なぜか部屋の主は不在であった。
夜更けに久秀が居るような場所は限られており、
心当たりを数箇所当たったが気配が無い。
最近忙しく、
に顔を見せられないで居る。
久秀は元々人使いの荒い男ではあるが、
通り越して作為的なものを感じる。
早く様子を見に行ってやりたいがどうしたものかと思っていると、
廊下を歩く久秀の姿を見つけた。
すぐさまそこまで跳躍すると、
彼にしては珍しく小太郎の戻りが遅れたことを責めなかった。
「おや、風魔か。
悪いが報告は明朝に聞かせてもらおう」
おかしい。
「……何かね?」
にぃ、と久秀が笑みを浮かべた。
「ああ、あの“姫君”の事なら今後は私が預かろう」
風魔は何も反応しない、という反応を返した。
人質を取るかのように扱っていた松永が、
わざわざそうまで言う理由は何なのだろうか。
相変わらず底意地の悪そうな笑みを彼は顔に貼り付けている。
わざわざ
を“姫君”と呼んでいる。
「物慣れぬ女性の相手は久しぶりで少々疲れている」
久秀が歩き始めたので、
その背を見送ってから風魔は
の部屋へと跳躍した。
部屋の前に立つと、いつもと変わらず規則的な寝息が聞こえた。
久秀が自分を担いだのだろうか。
そうであってほしい。
障子を少し開け、部屋の中にすべり込む。
部屋の外には見えぬよう、方向を絞った小さな明かりをつける。
検分するように
の姿を確認しながら、その頬に触れた。
「ん……ひ……小太郎?」
“ひ”に続く言葉は何だったのか。
は以前と同じように起き上がり、正座した。
小太郎は一部だけ赤くなった首筋に触れた。
彼女は意図がわからなかったようだったが、
次第に顔を赤くし、目を背けた。
手を離すと
は「違うの」と袖をつかんだ。
「私が……全部……!」
その後の言葉が出てこない。
松永の言葉は本当なのか。
そう思うと、体が急に重くなったような気がした。
の手からそっと自分の手を引き抜いて、
もう一度頬をなでた。
「小太郎、ごめんなさい」
が泣く。
「次は無いんだよね?」
分かっていて松永を選んだというのに、なぜ泣くのだろうか。
頬を伝う涙をぬぐってやったが、
後から後から零れ落ちてくる。
「ごめんなさい、ずっとありがとう、氏政様をお願いします」
風魔は立ち上がり、明かりを消した。
が泣いているが、もうどうしてやることもできない。
彼女が選んだ道である。
入ってきたときと同じように部屋を出る。
氏政の一人を隠す程度なら、
外に出ていた
の存在が無くなればそう難しくは無い。
そういう意味では
は正しい選択をしたのかもしれないと思った。
「いってらっしゃいませ」
完璧な所作で手をつく
の姿を見て、
久秀は無意識に笑みを浮かべた。
本人にとっては誤動作に近い反応で、
訝しく思いながらも久秀は口元を手で隠した。
はあの夜に久秀を選び、それが最終的な決断であったらしい。
どこかへと消える算段が無くなったせいなのか、
居候以上の勤めをこなしている。
裁縫の手腕もなかなかで、教育が行き届いているのが分かる。
彼女の細やかな気遣いも、
腕の中で恥ずかしげにもだえる姿も、
すべてが久秀のものである。
「ああ、すぐに戻るよ」
自分がこんな凡庸な台詞を吐くことになるとは思わなかったが、
相手にならばそう言い聞かせてやりたいような気がした。
そう言うだけで甘やかな笑みを浮かべるのだ。
を奪いとることで何かしらの反応を期待していた風魔は、
多少驚いたようだった、という以外の反応は見せていない。
もう
のところに姿を見せても居ないらしい。
なにやら一段と気配に不足を感じが、
それはそれで目指す目標に向けて一歩前進をしたようだ。
彼女の方でも風魔との断絶は納得しているらしく、
気に病んでいるという話は聞かない。
北条の話は頑なに沈黙を守っているが、
それ以外は全て手に入れたと言っても過言ではない。
急いたおかげで北条の居所をつかむ好機を逃したが、まあ良い。
ある程度の情報も入っているから、
老人一人を見つけ出すのも時間の問題であろう。
さほど急ぐ案件ではない。
松永久秀は上機嫌だった。
これほどの手間と時間をかけた上に失敗したことは珍しかったが、
それでも副産物を入手した。
仕込みが全てこの副産物の入手のために費やされたことになる。
手に入れたのがたった一人の女であると思うと馬鹿らしいが、
それでもやはり満足なのだった。
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