道半ば
しとしとと長雨が続いている。
土はぬかるんでいるから外に出る気力も湧かない。
もういっそ家に帰ってしまいたいと思ったが、
残念ながら今は城を攻めている最中である。
おいそれと陣を空ける訳にはいかない。
(そもそも自分はここに居る必要があるのだろうか)
は自問する。
ここには将軍足利義輝の一軍を預かる
のほかに、
主戦力となる軍勢を率いる松永久秀がいる。
が預かったのは付き合いに派遣しただけのような人数の軍であり、
本陣の中に天幕を張ってじっとしていても何も言われない。
つまり、その程度の扱いなのである。
(義輝様は何を考えていらっしゃるのか)
さっぱり分からない。
戦力と評価するにはあまりに微力な軍を率い、
まるで実績の無い若輩者の
を将に据えて松永に恩を売る。
形だけの恩であり、むしろ嫌がらせに近いのではないか。
(捨て駒なのか)
こんな所で死ぬのはご免だと思いながら待機しているが、
松永は
を城攻めに協力させる気はあまり無いらしい。
それゆえ生命の危機からは遠ざかってはいるものの、
居心地の悪い本陣の片隅でだらけているという運びとなった。
「時節が悪かったな」
足元の泥はね以外に雨の気配を感じさせない松永が天幕に入ってきた。
「築城の名手でも城攻めは不得手なのですね」
「これは手厳しい」
は厭味をこめて言ったつもりだったが、
松永の機嫌は毛ほども変わらなかった。
彼を相手にしていると、
子どものような我侭を言っている気分になる。
部下らしき誰かが松永用の床机をすぐに用意し、
さも当然という風に松永はそこに座る。
「帰ってもよろしいですか」
「……明日、明後日と晴れるだろうからそこまでの辛抱だ」
「私は何もしておりませんが」
「我慢できればご褒美がある」
「何ですか」
「折角だから見ていきなさい、この城はよく燃える」
の表情を見て、松永は首を傾げた。
「不満かね」
「不満も何も、そんなものを見て楽しいものですか」
「贅を尽くした余興だよ。
城が燃える様などそう何度も見られる景色ではない」
確かに城が燃えるとなれば珍しい景色だろう。
しかしそれを眺めて「わあ、綺麗!」と喜べる精神構造ではない。
「風魔に命じて爆薬を仕込ませたから、よく爆ぜるだろう。
壮観だよ」
にこにこと松永は穏やかな笑みを浮かべながら酷いことを言う。
主のお気に入りであっても、
はこの男のことを好きにはなれない。
茶の湯を立てさせれば優雅に立ててみせ、
芸術品の目利きにすぐれ、
珍かな品はどういう伝手なのか入手してくる。
領地を持つような身分の武人の中では、
かなり風雅を解するタイプの人間である。
しかし一度戦場に立てば残虐な行為を平気でするし、
人の神経を逆撫でする腕前は一級品で、
戦を始めるときには万が一にも負けない準備を大抵整えている。
先程の言葉から考えるに、今回も既に勝利は見えている。
ただ、ど派手に爆破するためだけに待っている様子である。
「早々にケリをつけていただきたいのですが」
「卿の気を引くのに失敗してばかりだな」
松永はこの手の冗談ばかり言う。
はわざとらしくため息をついた。
「退屈は嫌いだろう?」
「退屈で結構です」
「ならば何故将軍につく」
いつも冗談めかした口調なのに、突然に鋭い口調になった。
口元にはいつもの笑みを浮かべているが、
その目はいつもよりも剣呑だ。
ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。
目の前に居るのが、
今まで出会った中でも指折りの危険人物であることを思い出す。
「……そういう家です」
冷や汗が流れる。
手に汗が滲む。
何故こんな目に遭わねばならないのか。
「退屈な理由だとは思わんかね」
突然の緊張は唐突に弛緩した。
松永はいつもの冗談めかした口調に戻る。
「さて、考えたことがありません」
「そんなに警戒しないでくれたまえ。
短い付き合いでもないのに傷つくよ」
「ご冗談を」
「卿はいつでも手厳しいな」
松永は笑う。
「この贈り物がお気に召さないとあらば、他を考えるしかないな」
「お構いなく。
帯同しているのは主の指示故ですので」
「ではその主の首でも献上しようか?」
主の首。
将軍足利義輝の首。
は松永の顔を凝視した。
いつもの余裕のある笑みを浮かべて、楽しそうにこちらを眺めている。
「冗談だよ。
卿のような忠臣が居て羨ましい限りだ」
「そのような話は冗談でもやめて頂きたい」
「その割に卿は驚くばかりで怒りなど無かったようだが」
「主のご友人を疑うような真似は出来ません」
「私は卿の友人でもあるつもりなのだが」
松永はにやにやと嫌な笑みを浮かべたままだ。
「何をすれば卿の本心を引きずり出せるのか。
興味が尽きないなぁ」
「ご勘弁を」
「そうだな、今回は諦めるとしようか。
何、まだまだ時間はたっぷりある」
いつの間にか松永の背後に立っていた風魔が何事か耳打ちする。
「さて、花火大会までもう一仕事といこうか。
特等席で卿と楽しむために労は惜しまないつもりでね」
「早く片付けばそれが一番なのですが」
「そう言わず、楽しみにしてくれたまえ」
松永は立ち上がり、別段急いでいる風でもなく外へと出て行った。
出された床机は再び畳まれて片付けられる。
松永が居なくなると天幕の中はすっかり平和に戻る。
「……本当に何なんだ」
松永は
を特別扱いする。
それを面白がっているのか、義輝まで
を特別扱いする。
おかげで位も実績も無い
がこんな場所に祭り上げられている。
いい迷惑だ、即刻やめてもらいたい。
しかし、それが松永の狙いだとしたらどうだろうか。
には金も、力も、とにかく何も無い。
狙われるような家宝も技術も無い。
松永が特別扱いさえしなければ、ただの武家の娘である。
気を引いたところで得るものなど何も無い。
『卿の気を引くのに失敗してばかりだな』
ここに来て松永の冗談めかした言葉がずしりと重く感じられた。
彼はこの手の冗談ばかり言う。
しかし、“冗談めかしてみた”などという、
性質の悪い冗談だったとしたならば。
戦を始めるにあたり、準備を怠らない松永である。
人一人をどうにかするくらい造作も無いことだろう。
の反応を楽しんでいるのだろうか。
それとも本当に?
色々考えては見るが、不気味なだけで何も分からない。
冗談なのか、真実なのかもあやふやである。
(逃げてしまいたい)
は産まれて初めてそう思ったのだった。
武家の人間として将軍に仕え、相応の夫に嫁ぎ、
生家の繁栄のために働くようにと育てられてきたし、
別にそれを苦にしたことも、別の夢を持ったことも無かった。
松永の相手をしていると気が狂いそうだ。
もし松永が手を回しているならば、もう
に戻る道など無いだろう。
どういう道を歩かされているのかもよく分からない。
逃げたい。
家からも、仕事からも、松永からも。
しかし、逃げ出したいのに逃げられない。
の出世を喜ぶ家族を裏切るほどの度胸も無い。
そういう意味では松永は
の本音を一番引き出しているとも言える。
どれもこれも松永が起点であることも不気味でしかない。
これ以上何か引き出されるかもしれないと思うと恐怖を感じる。
もし極限の状態で甘言を囁かれたら縋ってしまうのだろうか。
あの松永久秀であっても。
否、松永久秀だからこそ分かるような、
人の心を修復不能なほどに折ってしまうような一言を。
はぶるりと震えた。
長雨のせいで気鬱になっているだけだ。
そう弱気を追い払う。
警戒のあまりに、
松永のことばかり考えていることに
は気づいていない。
それこそ思う壺だったと思い至る頃には戻る道が無いことを、
予想しているのはまだ松永ただ一人である。
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