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温泉へ行こう!


「――…お口に合ったようで何よりだよ」

半ば呆れたような声で、向かいに座る主松永久秀はつぶやいた。
馬鹿にされてようが、呆れられようが、そんなことはどうでも良い。
彼が選んだ料理人が腕によりをかけて作ったお膳は、
どの皿に手をつけても感動の美味しさである。

そんなに美味しいお膳を前にして、久秀は酒をちびりちびりと舐めている。
料理に対する冒涜だ!と糾弾したい気持ちは少なからずあるが、
そんな無駄な努力をするよりも目の前の絶品料理を堪能したい。

そもそも、この性悪主とこうして食事をするというのもおかしな話なのだ。
別に心身の不調を一切感じさせないのに湯治に出かけると宣言し、
僅かな護衛をつれて出かけるのかと思いきや、
彼が投げた変化球は二度変化した。
身の回りの世話をする人間も必要だ、と言って瓊佳を指名した。

瓊佳よりも位が高いはずの護衛の皆様は別室で食事をしており、
部屋の中には久秀と瓊佳と、そして給仕の女性が一人しかいない。

そう、給仕の女性が居るのだ!

万事にこだわりのある久秀は、身の回りの些事こそ他人の手を借りない。
瓊佳だってお茶を運んだり簡単な掃除をしたりする程度なのだ。
それを「身の回りの世話」という名目で慣れない山道をつれまわした上に、
更に投宿している宿の給仕を利用している。

そういえば、以前から彼は瓊佳を笑い者にして楽しんでいる様子がある。
嫌がらせか!
嫌がらせの割にこの鮎は抜群の塩加減と、
新鮮な素材のおかげで大層美味しいです!
この苦労の代償はこぼさず腹につめこむぞ!
という意気で瓊佳は食べた。

「卿の膳にも乗せてあるが、ここの酒も名品でね。
 試してみると良い」

こんな素晴らしい料理を前に久秀が飲んでいる酒である。
しかも、お墨付きで勧める一品。
これは試してみなければ。
そう思い、瓊佳は口の中の鮎を飲み込んでから一口飲んでみた。

「――…これは!!」

「美味いだろう」

「ええ、とっても!」

「それは良かった」

よくよく考えてみると、
膳の上のおかずはどれも酒の肴にぴったりな物ばかりである。
今日は一日よく動いたので塩っ辛いと感じることもないし、
瓊佳は山盛りのご飯の友にしているが、
本来は久秀のように酒とともに味わう物なのかもしれない。

そうやって無心に食べ続け、
瓊佳が最後の水菓子も食べ終わったころ、
久秀はようやく鮎をつつき終わったようだった。

「見事な食べっぷりだね」

「ご馳走様でした」

文字通りご馳走であった。
久秀は「お粗末様でした」と薄笑いを浮かべて言う。

「そういえば、湯の加減はどうだったかね」

「少し熱めで気持ちよかったです。
 殿も入られたのでは?」

「卿の意見も参考までに伺っておこうと思ってね」

「そうですか」

そうですか、と口で言ってはみたものの、
なんとなく不穏な気配を感じた瓊佳である。

「ところで。
 卿はなぜ自分がここまで連れてこられたと思っているのかね?」

久秀は顔色も全く変わらないまま酒を飲みながら膳をつついている。
疲労と満腹感からか、出かけたあくびを瓊佳はなんとかかみ殺した。

「殿の気まぐれじゃないんですか?」

「まあ、当たりといえば当たりなのだが。
 卿がいつでもぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるものだから、
 それでも手篭めにできるよう手筈を整えるのに苦労したよ」

「はあ、そうで……手篭め!?」

『そうですか』と適当な相槌を打ちかけて、
瓊佳はぎょっとして久秀の顔を正面からまともに見てしまった。
この上っ面だけ穏やかな主は、ここぞというときの行動力が異常にある。

「そろそろ皆食後でもう一度風呂に向かったろうからね。
 人払いも勝手に完了している。
 ここならば卿が恥ずかしがる必要は毛ほどもないよ」

ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら、久秀は立ち上がった。
そういえば、給仕の女性の姿を暫く見ていない。

「恥ずかしがる以前の問題です!」

瓊佳も逃げるべく立ち上がったが、
酒が効いているせいでくらりと眩暈がした。
おいしすぎてつい飲みすぎたのだろうか。
踏ん張ろうにも脚が重くてもつれる。

「そう急いては危ないよ。
 一日歩き通しで脚も動かぬようだしね」

力なく座り込んだ瓊佳の腕を掴んで、
久秀は心の底から楽しそうな笑みを浮かべた。

「確かに少し湯の温度も高かったから、
 卿と入るのは事が終わってからにしよう。
 途中でのぼせてしまっては時間が惜しい」

「え、あの、殿?
 ご冗談にしては過ぎませんか?」

久秀は瓊佳の腕をつかんだまま引きずって歩き始めた。
襖一枚隔てた向こう側は床が延べてあるはずだ。
瓊佳は精一杯その場に踏ん張ってみたので、久秀は歩みを止めた。

「私は冗談が下手な優しい主でね。
 別にここで頂いても構わないのだが、
 布団の上の方が卿も後々苦労が少ないだろう?」

「……だ、誰かぁぁぁあああっ!!」

瓊佳は断末魔の悲鳴のように叫んでみたが、返事は無い。

「威勢の良いことだ」

あはは、と笑いながら久秀は再び歩き始めた。