思いつき


源氏物語を読んでみたいんです。

そう言ったのは十日ほど前だったか。
信玄が顔を上げると、
はいつになく真剣な顔で机に向かっていた。

手には筆、机には二枚の紙。

「むむむむむむ……」

一枚は信玄が書いてやった手本で、
もう一枚はが今から書くための紙である。
彼女がこれほど真剣に字を書こうとしている原因は分かっている。
源氏物語を読み聞かせたからだ。

源氏物語とは古くからある有名な物語で、
宮中の恋多き男を描いたものである。
そういう物語を信玄は好んでいなかったが、
が読んでみたいというので、
折角だからと読み聞かせたのである。

紫式部曰く、字が下手な者は魅力が無いだとか。

何の新鮮味も無い解説書を片手に、
当時の文化や作法を教えてやる。
信玄にとってはが側に居ること以外は苦痛な時間であったが、
どうやらにとっては違ったようだ。

真剣な顔で、そろそろと筆を墨に浸す。
真剣な顔で、そろそろと紙の上に筆を移動させる。
真剣な顔で、そろそろと線を引く。

危なっかしい手つきから、
筆に慣れていないことがよく分かる。
本人によればは遠い世界から来たため、
筆の扱いには慣れていないのだそうだ。
武芸はこちらに来てすぐに教えたので、
最近は腕が立つ、と表現できるくらいになってきた。

「ああ……」

はため息とともに、うめき声を吐いた。
どうやら失敗したらしい。
書くことに慣れれば上手くなると諭してみたが、
どうやら彼女は今すぐにでも上達したいらしい。

「……肘が曲がっておるぞ」

「……先に言って下さいよ、お館様」

怨念がこもった返事が返ってきた。
それだけ本気、ということにしておこう。

「己で気付かねば意味が無かろう」

「うう……」

目に見えてしょんぼりしてから、
はもう一度真剣な顔に戻った。
気合いを入れて、次の一画に集中する。

そういう顔も嫌いでは無いので、
別に止めるつもりは無い。
手合わせとは違い、ゆっくり眺められるので喜ばしいことである。
しかし。

「……そう急くことでも無かろう」

「急ぎます。
 すごく、急ぐんですよ」

は顔を上げて、信玄を睨んだ。

「何故じゃ」

「字が下手な人は魅力が無いんでしょう?」

「……それはな、

「慰めてくれなくても良いんです。
 私の字がへたくそなのは明かですし。
 でも、努力くらいしたって良いでしょう?
 ……お館様に嫌われたく無いんです」

は泣きそうな顔をして俯いた。

「わしがいつ、字がへたくそだからお主が嫌いじゃと言うた」

「え、だって……」

「良いか、
 源氏物語ははるか昔の、貴族の話じゃ。
 和歌の才能があろうが無かろうが、
 字が綺麗であろうが無かろうが、
 お主はお主。
 違うか?」

「……違いませんけど」

はまだ何か言いたげだ。

「わしはお主がお主らしくあってくれればそれで良い。
 それにお主はほれ、異邦人であろう。
 『こうあらねばならぬ』などと、
 難癖をつけるほど器量は狭くない」

「……」

信玄がの顔をのぞき込むと、
彼女は視線を逸らした。
まだ何か言いたげだったが、
どうやら言葉が見つからないらしい。

「まあ、才能はあるに越したことはないがのう」

「……やっぱり、練習します」

袖をまくり上げて、は再び机に向かった。
余計な邪念が無いだけあって、
先程よりも集中できているようだ。

彼女がこんなに必死に字の練習をしたがっていたのは、
自分のためだったとは。

信玄はを眺めながら、つい頬がゆるんだ。
彼女が興味を持っているからと、
源氏物語関する書物を読みあさった甲斐がある。
要するに、信玄もに呆れられたくないだけなのだ。

そこまで考えて、
次は共に書物を探すところから始めよう、と思った。
そうすればと一緒に居られる時間が増える。
その考えは、とても素晴らしいことのように思えた。

「……何か面白いことでもあったんですか?」

いつの間にか一枚書き終えていたらしく、
がこちらを見ている。

「他に何か興味がある物は無いか?」

そうですね、とは考え始めた。
次は彼女が何と口走ろうが大丈夫。
信玄は頬を緩めたまま、思案するを見つめた。