我儘


穏やかな寝息を立てるを見やる。
顔にかかった何本かの髪の毛を耳にかけてやった。
その寝顔は安心しきっており、何の不安も無いようで、
まるで赤ん坊のようだなと思った。

髪の毛を一房すくってみる。
自分の節くれだった大きな手には似合わない、
さらさらとした綺麗な髪だ。

これが、若いという事か。

そう思って苦笑する。
自分のこれからといえば、老いて朽ちるばかりである。
行き方よりも越し方の方が随分長いのだろう。
その間に成し遂げられることなどそう多くない。

反対に、の行き方は随分長い。
老いると言うよりは成熟し、まだまだ長い人生では何が起こるかわからない。
その過程で、老いてゆく自分から離れてゆくこともあるだろう。
自分が死んだ後、どれほどが覚えてくれているものか。
の記憶の中で、自分は風にさらわれる砂のように風化するだろう。

そう思うと、愛しているのに憎らしくなる。

我儘なものだ。
老いて朽ち果てる自分を見せたくないという思う自分と、
そうなってもと居たいと思う自分が居る。
どちらかと言うと前者の自分が強く、
どうすればを繋ぎとめていられるだろうとつい考える。
それを考え始めると、死が酷く怖ろしい物に感じる。

自分はどれだけの人間に死を与えてきたのだろう。
名も知らぬ数多くの兵士達、武将達。
彼らが想う人がいて、彼らを想う人が沢山居ただろうに。

すくった一房に口付けた。
ぱっちり、とが目を開いた。

「どうなさいましたか」

落ち着いた声音だ。
それは当然で、誰も自分の頭の中など覗けない。

「いや、何も無い」

そう言うと、は訝しそうに此方をじろじろと見てきた。
勘の鋭い娘である。

「お館様はいつも、何も仰ってくれませぬ」

は眉間に皺を寄せた。

「私はそれほど頼りないですか」

頼りないのではない。
若いのだ。

つい嫉妬するほどに。

「いや、ワシはそなたを信頼しておる」

「お館様の“信頼”が判りませぬ」

は目を伏せた。
先ほどから眠っているとばかり思っていたが、
ずっと起きていたのだろうか。
そして、自分を見ていたのだろうか?

そんなまさか、と否定する。
見ていたところで、それ程顔に出る性質ではない。
何を考えていたかは判らないだろうが、
の事だから何か察しているのかもしれない。

「お館様はそうやって、いつも私を置いていってしまうのです」

少し拗ねたような声で、は言った。

「余人の手の届かぬ高みへ行ってしまわれる。
 私は、ついてゆくことすら叶わない」

「何を言うておるか」

「独りは嫌です」

消え入りそうな声でそう言って、
ぎゅう、とは信玄に抱きついた。

独り。
人は皆独りだ。
生まれてくるときも死ぬときも、
人生の殆どの場面を独りで切り抜けるしかない。

それでも自分の腕の中に居る人間と離れたくないというのは我儘だ。
信玄はを抱きしめた。
自分と比べて随分頼りない、細い身体だ。

「誰が置いてなどゆくものか」

そう言って、の額に口付けた。

誰が置いてゆくものか。
誰が離れるものか。

置いていってなどやらぬ。

我儘だ。
この年になって、この立場にあって我儘を言うとは、自分でも笑ってしまう。
しかし、これだけは何としても押し通したい。

そんな事を考えながら、信玄はにしがみ付くように抱きしめた。