雨と猫


は寝転がって半開きの蔀から空を眺めた。
そらは鬱陶しいほど暗い色の雲に覆われ、しとしとと雨が降っている。
先ごろ満開を迎えた桜も、
この雨で散ってしまうのではないかと心配になる。

「これ、
 はしたないことをするでない」

怒りの全く篭らない声で、信玄は嗜めた。
彼の手には長い巻物。
手元を照らす紙燭。
この雨では昼間といえども部屋の中は暗い。

「別に、今は公的な時間じゃ無いから良いでしょう?」

「然れど、わしの目の毒じゃ」

「本当にそう思ってる?」

「思っておらねば、注意もするまい」

「だと良いんだけれど」

また、空を見上げる。
開けた窓から冷たい空気が流れ込んできて、
はぶるりと一度震えた。

「佐助は?」

武田の屋敷では勝手な行動はできない。
優秀な忍(を自称する)猿飛佐助がどこで覗いているか判らないからだ。

「人払いしておる。
 おればお主がいつも不機嫌になるからのう。」

信玄は眉間に皺を寄せて文面を睨みつけている。
彼は集中するとそういう表情になる。
最初は怖いと思ったが、今はむしろ素敵と思う。

「そっち行っても良い?」

「かまわぬが、邪魔はせぬように」

「判ってる」

は立ち上がって、信玄の傍に座った。
彼が持っている巻物を覗き込むが、文字は読めても内容は読めない。
難しすぎてすぐに眠くなってしまう。
つい欠伸をしてしまった。

信玄はというと、ずっと巻物を見ている。
時折くるくると巻物を繰っている所を見ると、
彼にとっては面白い事柄が書かれているのかもしれない。

正座して、背筋を伸ばして。
座っているだけで肩が凝りそうな姿勢で、さらに巻物を読んでいる。
の相手をしてくれる様子は無い。

退屈だったので、は文机を前に寄せて膝に寄りかかってみた。
硬くて、もたれる方が疲れる。

「こりゃ、よさんか。
 足が痺れる」

「私だけの特権だもの」

そう言うと、ぐしゃぐしゃと大きな手で頭を撫でてくれた。

「お主はほんに猫のようじゃのう、

「猫は嫌い?」

「ただ飯食らいは要らぬ」

「ケチ」

舌打ちをすると、信玄は声を上げて笑った。

「幸村が泣くぞ」

「どうして?」

「あれはお主を好いておるようじゃ」

はふと、幸村の顔を思い出した。
殿ぉぉぉっ!」と叫んでいる以外の言葉をきちんと聞き取れた試しが無い。
顔を服と同じくらい赤くして、しどろもどろ。

「あんな暑苦しいの、いらない」

「文句の多い猫じゃのう」

また、笑う。

「でも、お館様があんまりかまってくれないなら、
 幸村のところの方がマシかもしれないけど」

「うぬ、それはいかん」

信玄はを起こして、額に口付けてやった。
は幸せそうに、喉を鳴らす猫のような顔をした。

「……それだけ?」

「昼間から何を言うておる」

「ケチ」

同じことを言って、はまた信玄の膝にもたれかかった。
信玄はもう文句は言わなかったので、はそこで暫くまどろんだ。

目が覚めたとき、信玄は腕を組んでピクリとも動かなかった。

「お館様?」

よ、茶でも立ててくれぬか?」

「それは良いけど、どうしたの?」

「お主のせいで足が痺れて立てぬ」

むすり、と不機嫌そうな顔でそう言った。
は少し楽しくなった。

「お茶くらいいくらでも立てるから、かまって、ね?」

「かもうてやる。じゃから、早うせい」

「はぁい」

は小走りでお茶の用意を取りに行った。
先ほどまでの暗い気分はもう、どこかに行ってしまった。

雨は嫌いだ。
花を落としてしまうし、何より家の中に篭らなければならない。

でも、雨は好きだ。
お館様に昼日中から甘えられるから。
お館様を独り占めできるから。