泥中の花
「いらっしゃいませ!」
瓊佳の笑顔が弾けた。
「おう、いつものやつ」
「はいよー!」
佐助は向かいの家の屋根裏から、店先をちょろちょろ歩く
瓊佳を見て
いた。
この茶屋で隠密が連絡を取っていることを突き止めてから一週間。
ずっとこうしてへばりついているのが嫌になるくらい連日の晴れ。
このまま散歩に出られたらと思うが、
いやいや、給料分は働かなくてはと首を振った。
「お連れさん、今日は遅いね」
「いやぁ、嫌われちまったか?」
「いっつもおんなじ一番安いお団子だからでしょ?」
「商売上手だなぁ…畜生、今日はじゃ、一本増やしてくれよ」
ぼりぼり、と頭を掻く男を前に、
瓊佳はくすくすと笑った
「あら、おんなじお団子で良いんですか?」
「……ええい、じゃ、今日はちょっと良いやつ持ってきてくれよ」
「まいどあり!」
彼女が話しかけている男は恐らく、間者。
その男の連れとは、きっと武田の情報を探る人間の使いだろう。
「ごめん、遅れちゃった!」
間者の連れ――目立たない顔の女がやってきた。
間者の重要な素質として、目立たないということが挙げられる。
二人並ぶとどこにでも居そうな、
好き合っている者同士が楽しく逢引しているように見える。
「ごゆっくり」
瓊佳はお茶と饅頭を二人の間において、奥に引っ込んだ。
佐助は二人に集中した。
和やかに会話しているが、目はきょろきょろと辺りを探っている。
訓練を受けた人間ではないらしく、
それらは自然に行われているように見えるが佐助から見ると不自然だ
。
す、と男が女に小さく折りたたんだ手紙を渡した。
女は一瞬でそれを手の中に隠し、髪を直すふりをして手紙を隠した。
佐助は、女の後をつけるようにとつれてきていた部下に命じ、
自分は男の後をつけることにした。
瓊佳が店じまいの支度をはじめた頃、
間者二人は暫く談笑した後、別な方向へ歩き始めた。
佐助は屋根裏から出て、男の後を追った。
逢魔が時の、どこか不安な色合いの空である。
(ま、お館様より怖いものなんて無いけどね)
町人の格好をしてきているので、誰も佐助を訝しげに見る人間は居な
い。
ときおり、女の子の熱い視線(こういう熱いのは大歓迎)を受けたりす
るが、
それ以外に目立った異常は無い。
気配を消して、男の後ろを歩く。
男はまっすぐ城の近くの、武田家に仕える武士達の屋敷街へと向かっ
ていた。
歩くのが早い。
佐助は舌打ちしたい気分になりながら、後をつけた。
目立つ行動は避けたいのに。
「お客さーんっ!」
瓊佳の声がした。
不味い。
男は立ち止り、振り返った。
佐助はそ知らぬ顔で横を通り過ぎる。
「どうした、嬢ちゃん」
「歩くの、早いですね!」
路地に入り、様子を伺う。
時間が時間なので、もう人影は殆ど無い。
「お手紙、忘れてましたよ?」
阿呆。
佐助は溜息をついた。
男の顔がみるみる強張る。
「どこにあったんだい?」
「お皿の下に」
「何で俺んだと判ったんだい?」
「お連れさんがそこに置いたのを見ていたの。」
とんだ観察眼である。
佐助は気がつかなかった。
「中身は見たかい?」
「はい。でも…」
字は読めないの。
そう続けることが、
瓊佳には出来なかった。
男は突然抜刀した。
殺される、と思った瞬間。
「はいはい、女の子に手ぇあげちゃ駄目でしょーが」
目の前に、誰かが来てその刀を止めていた。
「なっ…誰だ、お前!」
男は動揺しているようで、叫んだ。
佐助は頭痛がした。
こんな男の尻尾を掴むのに一週間もかかったなんて。
更に言うと、彼はトカゲの尻尾のように切られた側なのだろう。
「猿飛佐助か!?」
知られてはいけない。
逃がしてはいけない。
自分が関わっているという事を隠すから隠密なのである。
こうして姿を見せてしまったことだけでも失態なのに、
名前まで呼ばれてしまった。
佐助は開いていたもう一つの手で男の首を手裏剣で切った。
鮮血が迸り、顔にかかる。
返り血を浴びたのはいつぶりだろうか。
力が抜け切った男の身体はその場に倒れた。
「さーて、大丈夫かい?」
くるり、と振り返った。
瓊佳は尻餅をついて、その場に座り込んでいた。
「立てる?」
手を伸ばす。
「……ひ、人殺し!」
いつもの笑顔はどこかに消え去り、
恐怖で顔を引きつらせた
瓊佳はそのまま、走って逃げていった。
彼女が持ってきた手紙は、ぐしゃりと折れていた。
ああ、そうだね、俺様は人殺し。
もう、何人この手で屠ったか知れない。
無性に悲しくなったが、それはそれ、と男の死体を抱えてその場を離
れた。
勿論手紙を回収することも忘れない。
部下の方は首尾よくことを運んだらしく、
何処の何某と通じているという報告を受けた。
それをお館様に報告し、佐助の今回の任務は終わった。
『……ひ、人殺し!』
瓊佳の顔を思い出して、悲しくなった。
忍として生きるからには、それ相応の覚悟が要る。
人を殺めることなど任務の達成の前には造作も無いことなのに、
どうして今回はこれほど悲しいのか?
馬鹿は俺様か。
頭を掻いて、溜息をつく。
女の子には優しく、がモットーだったのになぁ。
任務が終わった後も、佐助は時折あの屋根裏へ足を運んだ。
そこから見える景色は以前と変わりない。
しかし、茶屋と佐助を仕切る境界線は絶対的な威圧感で存在し、
佐助が日の光の中に入ることを拒む。
「いらっしゃいませ」
瓊佳は変わらず、こちらの心まで温めるような笑顔で笑う。
まるで泥沼のような暗い世界から見える、清らかな花のように。
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