啼かない鳥
信長は数人居る側室の顔を完全に覚え切れていない。
一応、名前と家元は覚えてはいるが。
顔を合わせることは少なかったし、名前を覚えることはそれほど重要ではなかった。
部屋を訪れる前に誰かに問えば事足りる。
そんなとき、蘭丸が濃姫やそんな側室達が居住する建物の中を走っているのを見た。
とても楽しそうにしていたのが不思議だったので、睨むと、
蘭丸はやはり楽しそうに言った。
「
さんって、本当に綺麗な声をしているんですね!」
はて、誰であったか?
最初に思ったのがそんな感想だったので、どうしようもない。
「濃姫様のお部屋にも聞こえていたんです。
濃姫様もすっごく気に入ってましたよ!」
「ふん…」
にかっと笑って、蘭丸はぺこりと頭を下げて走っていった。
彼はまったく、何を考えているのだろうか。
大の大人でも怖れるこの信長を、誰よりも慕っているのが不可思議だ。
興味を持ったので、そのまま廊下を歩いた。
、という名前に関連する事項を思いだそうとしても、何も出てこない。
誰であったか。
とりあえず、濃姫の部屋に向かった。
近づくにつれ、どこかから誰かの歌声がはっきりと聞こえてきた。
花の色は うつりにけりな いたづらに
我が身世にふる 眺めせしまに
耳をすませずとも、聞こえる。
近い。
声を頼りに廊下を歩いて、その声の主が居る部屋を探し当てた。
何の前触れも無く襖を開けると、夕暮れが見える窓辺に座っている女がゆっくり振り向いた。
綺麗な女だった。
濃姫のような芯の強そうな女ではなく、
ふわふわと何処までも柔らかくつかみどころが無い。
思い出した。
どこぞの貴族の娘であった。
「か、上総之介様…お久しゅうございます。」
ゆったりと、匂うような笑顔で三つ指をついた。
傍には文机がおいてあり、その上には何冊かの本が散らばっている。
一冊は開いたままだ。
「歌が好きか。」
「はい。お耳汚しをしてしまい、申し訳ありませんでした。」
は困ったように笑い、本を片付け始めた。
隣に座っていた彼女の側女は気を利かせたのか部屋を出て行った。
部屋の上座にどっかと座り、
を眺める。
本を片付け、少し暗くなってきたからか燭台を灯す。
日が暮れるとまだ少し冷えるので、火鉢の用意を言いつけ、
信長から少し距離を取って座った。
時々本を取り落としたりするのは、彼女が小刻みに震えているからである。
床の間にいけられている梅の花がふんわりと桃の花が匂った。
それだけが酷く甘い。
「歌え。」
「え?」
きょとんとした表情で、
は信長を見た。
そこに嫌悪や不快の念は無く、本当にただ単純に驚いたようだった。
「歌えと言っておろう。
聞こえぬか?」
きょろきょろ、と辺りを見渡して、
は明らかに動揺していた。
「あの…私何か失態をいたしましたでしょうか?」
目には涙を浮かべ、身を震わせ、怯えきっている。
まるで小動物を前にしたような気分だ。
「歌えぬと言うか?」
「いえ、いえ。
何を?」
「好きな歌を歌うが良い。」
脇息によりかかり、信長は深く溜息をついた。
は歌わない。
声が出せぬようだ。
「…ふん。」
終いにはぽろぽろと涙を零し始めた。
始末に終えぬ。
そういえば、ずっと会っていなかったような気がする。
そういう人間がどれほどいるか、信長は把握していない。
別に女など、必要は無い。
立ち上がり、信長は
の胸倉をつかんでたたせた。
恐怖で顔が引きつっている。
どうにも要領を得ない。
素直に歌えば良いものを。
「歌わぬつもりならば、良い。
興も冷めたわ。」
そのまま手を離すと、
はその場にくたりと座り込んだ。
腹が立つ。
信長はそのまま部屋を後にした。
どうせ、自分には手に入らない。
純粋に美しい物というのは、襖一枚を隔てるくらいが丁度良い。
自分が近づけば、それだけで壊れてしまう。
どう扱って良いのか分らない。
それから暫く、
の部屋の前で柱に凭れて座る信長の姿が見られた。
部屋の中からは美しい歌声が、聞こえた。
戻