狂気
「光秀……!」
死神の如くゆらりと立った光秀を前に、
瓊佳はぎりぎりと奥歯をかみ締めた。
刀を握る手に力が入りすぎて指が痛い。
「
瓊佳…ここに居たのですか、探しましたよ。」
これが城の中で、明るい日差しの中で聞いた言葉ならば誰も驚かない。
燃え盛る本能寺の前で、
血に濡れた鎌を持つ男からは聴きたくない言葉である。
「その奥に居るのでしょう、信長公は。
退いて下さい。別に、退かせてさし上げることもできますが。」
背後からぱちぱちと、木材が燃えて爆ぜる音が聞こえる。
信長はもう逃げてくれただろうか。
逃げるという言葉は全くに合わないが、
ともかく撤退してくれていることを心から願う。
何もあんな、燃え盛る建物の中で待たずとも良いだろうに。
「冗談を言うな!」
瓊佳は刀を中段に構えた。
光秀は細い月のような形に口の端を吊り上げた。
「私はいつでも、真面目ですよ。」
くつくつ、と笑う。
その笑いが不気味でならない。
元から良い感情は全く持っていなかった。
真っ白で血の気が感じられない肌や、何を考えているのかわからない所。
一番気に食わないのは、戦場で見せる禍々しい狂気である。
信長とは別種の、より混沌を好む、不気味な狂気。
光秀が一歩踏み出したので、
瓊佳は一歩下がった。
気圧されている。
光秀が一歩前に出るごとに、
瓊佳も一歩下がる。
「
瓊佳、下がってばかりでは私を止めることはできませんよ?」
「五月蝿い。」
「
瓊佳、顔が強張っていますよ。怖いのですか?」
「五月蝿い!」
「そういえば、
瓊佳は怖がりでしたね。」
「五月蝿い、五月蝿い!!」
「初めて会ったときも、
瓊佳は私を見て震えていましたね。
今も、逆毛を立てた猫のようだ。」
光秀がにやにや笑っている。
光秀が鎌を持ち上げて、ぺろりと付着した血を舐めた。
光秀が鎌を振り上げた。
光秀が。
光秀が。
光秀が。
「うあああああああああああああああああ!!!!!」
瓊佳は刀を振り下ろした。
光秀はその刀を鎌の柄で受ける。
「力が入りすぎていますよ、
瓊佳。
そんな様子では私を倒すことなどできませんよ?」
くつくつ笑いながら、光秀が
瓊佳の刀を弾いた。
瓊佳はすぐに次の攻撃をしかけるが、
光秀はさも余裕という顔で受け流している。
「左側が隙だらけですよ。
いけませんねぇ…殺されてしまいますよ?」
「五月蝿いっ、五月蝿いっ!」
光秀がわざと左に攻撃を仕掛けないのが気に食わない。
何なのだ、この男は。
殺すならばさっさと殺してしまえば良いのに!
「いつも怯えていましたねぇ、怖がりな
瓊佳。」
光秀が深く踏み込んできたので、
瓊佳は慌てて一歩退いた。
慌てたせいで足が縺れ、その場に尻餅をついた。
光秀は嗤いながら鎌を振り上げた。
殺される。
光秀に殺される。
嫌だ、嫌だ。
まだ死にたくない。
瓊佳は咄嗟に刀を強く握ったまま目を瞑った。
暫く待ったが、鎌が振り下ろされる気配は無い。
恐々と目蓋を持ち上げると、
瓊佳が握る刀にべっとりと赤い血が垂れていた。
その先を見ると、刀の先が深く光秀の脇腹に刺さっている。
あいた片方の手で刀を握り締めている。
「な、何で…?」
声が震えた。
意味が判らない。
光秀が振り下ろすはずだった鎌は今、
彼の背後の地面に突き刺さっている。
「何故でしょうね…殺せると思ったのですが。」
光秀が薄く笑った。
他人をあざ笑うような、
何かを企んでいるような普段の笑みとは別種の笑みだった。
「何故そんな顔をしているのです?折角私を殺したというのに…。」
光秀が手を伸ばしてきて、頬に触れた。
血がべっとりと頬について気持ち悪い。
「怖がりな
瓊佳…」
光秀の手がだらり、と力なく垂れた。
顔には薄笑いが張り付いているが、
瞳孔が拡散した目にいつもの怪しい光は無い。
訳がわからない。
憎くて仕方無かった男が死んだのに、手が震えている。
殺してやると確かに思っていた男が死んだのに、
頬を生ぬるい液体が流れている。
がちゃり、と金属同士が擦れる音がして、
信長が燃え盛る本堂の中から現れた。
一歩、また一歩と歩いてくるのが判る。
「光秀は死んだか…愚かよの…。」
体を支える力を失った光秀の体が、
刀をレールのようにして
瓊佳の方へ倒れてきた。
瓊佳は小さな悲鳴を漏らして、刀から手を離した。
バランスを崩した光秀の体が地面に崩れ落ちた。
怖ろしい。
何を考えているのか判らないから怖ろしい。
しかし、その怖ろしい人間がこれで居なくなったのだと思うと、
嬉しいと心の底から思う反面、
少しだけ、ほんの少しだけ何かが欠けてしまったような気がするのは、
自分が余ほど光秀が怖ろしかったのだろう。
きっと、そうなのだろう。
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