「なぁ、、また遊んでくれよな!」

そう言って、蘭丸は駆けていった。
きっと信長様や濃姫様のところへ向かったのだろう。
子供ながらその体力に呆れる。
へとへとになりながら、はにっこり笑って見送った。

「武術師範も楽じゃないですね。」

兵士の一人にそう言われて、は苦笑した。

「武将を育てるための人間ではない、
 と早く理解してもらいたいものだわ」

武術師範という肩書きは強くなければもらえないが、
強いから持っているという訳ではない。
高名な人物ならいざ知らず、
の場合は職分を表すために持っているような物にすぎない。

「…あと、光秀様。
 覗きはいけません、覗きは」

蒸し風呂のような道場の小さな窓から、
銀色の髪がちらほら見え隠れしていた。
そのあまりに自然からかけ離れた色はどこに居てもよく目立つ。

「ふふ、気づかれてしまいましたか。
 蘭丸に見つかると後が五月蝿いので、少々隠れておりました」

ゆらり、と窓に青白い顔が表れた。
ぺったりと貼り付けられた笑顔が薄気味悪く、
暑い道場が少しだけ涼しくなったような気がした。

光秀はゆっくり迂回し、入り口からきちんと道場に入ってきた。
彼の全身を取り巻くのは、
信長様とはまた別種の恐怖を孕んだ空気だ。
は見るたび悪寒が走る。

「お手合わせ、願えますか」

「光秀様のような武人のお相手が務まるかは知りませんが、
 出来る限り致しましょう」

そう答えると、光秀はにっこりとまた笑った。

「できればこれでお願いしたいのですが」

光秀がそう言ってくい、と持ち上げたのは、
彼が戦場でいつも使っている薄気味悪い形をした鎌だった。

「……良いでしょう」

さん!!」

の反応に、周りが動揺してざわめいた。
別にここで殺されるなどという事は無いだろう、と思う。
いくら光秀様とはいえ、そのような無慈悲な事はないだろう、と。

飾ってあった刀を取り、鞘から抜いた。
毎日手入れを欠かさないために、
研ぎ師に出した直後と遜色ないほどの質を保っている。
つまり、切れ味は良い。

その場に居合わせた者達は壁際に並んで座り、
と光秀は道場の真ん中で対峙した。
と言っても構えているのはだけで、
光秀はいつものごとく鎌の先を地面につけて嗤っている。

「参ります」

は地面を蹴って突っ込んだ。
下段の構えから首を狙って。
斬るつもりは毛頭なく、
「参りました」と言わせればそれで終了の練習試合である。

光秀は身体を反らせてそれを避け、鎌を横に振りぬいた。
はそれを飛び退って避けた。

光秀は容赦なくもう一方の鎌を振り下ろす。
それを難なく避けて、死角から刀を脇腹に向けて突きだす。
そのような直線の攻撃が当たらないことは承知のうえだったが、
光秀が初撃で振った方の鎌を逆手に持って、
丁度一回転する要領で振ってきたので驚いた。

頬の皮が一枚、切れた。
ぴりぴりと痛い。

もう一度距離をとり、今度は中段に構える。
暫しにらみ合い、またもが先手を打った。
間合いを詰めて、再び首を。

「攻撃が単調ですよ」

光秀が嗤った。

瞬間、彼から間合いを詰め、思い切りの腹に前蹴りを入れた。
自分で加速していた分も加わり、は一瞬呼吸が出来なかった。
派手に吹っ飛んで、背後にあった壁に背中を打ち付ける。
可哀想だが、その辺りに座っていた人間が慌てて場所を開けた。

光秀は嗤いながら鎌を振り上げた。
刀は蹴られたときに落とした。
その目があまりに愉しそうだったので、
はこのまま殺されるとばかり思って目を瞑った。


ざくり


音は聞こえど痛みが伝わらないので、
はおそるおそる目を開けた。

鎌が首のすぐ真横の壁につきささり、
その刃が首にごく浅い切り傷をつけていた。
目の前には無表情の光秀が立っている。

「…てっきり、殺されるかと」

「ええ、殺すつもりでした。
 最初はね」

光秀の目は、凍てついていて怖ろしい。
まるで鏡のようだと思う。
何かを映しはするが、それ本体についてはよく判らないような。

「蘭丸さえ居なければ、愉しい“死合い”になったでしょうに…。
 残念です。」

壁に刺さった鎌を抜いて、
の頬を流れる血を光秀はぺろりと舐めた。

「貴方を殺すのは私です」

囁くような、ごく小さな声だったが、
ぞっとするほど冷たかった。
それがあまりに怖ろしくては凍りついた。
だけでなく、道場全体が静まり返っていた。

光秀はの首の血を啜った。
そして、噛み付くように首に口付けた。

「痛っ…!」

その痛みに漸く、は金縛りににた硬直状態から脱し、
光秀の肩を突き飛ばした。
後ろに数歩よろめいた光秀は喉をくつくつ言わせて嗤いながら、
口元についた血を拭った。

「ではまた」

そう言って、鎌をずるずると引きずりながら道場から出て行った。
その姿が完全に見えなくなってから、
道場全体にかかっていた呪縛が漸く解けたように、
皆が一斉に溜息をついた。

さんって…」

「そんなんじゃない」

ぴしゃり、と遮る。
「そ、そうですか」とバツが悪そうに、声をかけた男は引き下がった。

そんなんじゃ、無い。
この口付けは愛している人間にするようなものではなく、
いずれ自分が殺す、これは自分の物だ、と主張するような、
そんな口付けだった。

そう思うとまた悪寒がして、
は光秀がつけた痣が残る首筋にぴったりと手を当てた。