道標
私は向かいの牢屋でずっと見ていた。
光秀様が捕らわれている様子を。
私達明智軍の幹部は、豊臣軍の軍師竹中半兵衛の裁量によって裁かれた。
その基準は全く定かではないが、どうやら私はかなり重い刑罰を下されたようだ。
なぜなら、光秀様が向かいに居るような、厳重な警備が施された地下牢に入れられたからだ。
全身を拘束された光秀様よりはマシであったらしく、
大きな錘がついた足枷一つである。
口には舌を噛まないように猿轡が付けられている。
地下牢の中は暗く、湿った空気が凝っている。
蝋燭の光はこの地下牢を照らし出すには随分少なく、
空気だけでなく闇も牢の隅に凝っている。
出される食事が美味しくいただける訳がなく、
は牢に入れられている間に随分痩せた気がする。
毎日することが全く無いので、横たわって外の様子をじろじろと見ていた。
が十何度目かの睡眠から覚醒したときには、光秀はもう飽きていたようだった。
その目がきょろきょろと辺りを探り、首を動かす度に蝋燭の光を銀髪が弾いた。
この人には色素というものが全く無いのだろうか?
真っ白な肌に真っ白に近い髪。
全てが作り物めいていて、見ていると薄ら寒くなる。
ふと、目があった。
少し驚いたようだったが、
に興味が無いらしくすぐに視線が外された。
ほっと、安堵の溜息が出た。
それから更に何度かの睡眠を経た。
様子が変化したのは光秀だけではなく、牢屋番も変化した。
最初は食事を与えるのにも警戒心をあらわにしていた兵士であったが、
日に日に警戒を怠るようになっていくのが分った。
他に観察すべき対象が無かったからそれに気がついたのかもしれない。
そんな牢屋番を見るたび、光秀様の目はきらりと光った。
トンボ球のような眼球が、牢屋番を捕らえて離さない。
その光景は異様で、牢屋の柵ごしに見ていても背筋が凍りついた。
光秀様は、牢を破るおつもりだ。
退屈されているのだろう、牢屋番が猿轡をもどすときに一瞬笑ったのが見えた。
何か考えていらっしゃるに違いない。
今の光秀様が考えられるのは、きっと牢屋を破る事以外にない。
見ているのが怖ろしくなって、
は寝返りをうった。
既に食事は済ませて、柵の近くに並べてある。
光秀様に背中を見せるのは怖ろしいが、正面から見るよりは全然マシである。
牢屋の外はどうなっているのだろうか。
皆はどうしているのだろうか?
元気で居てくれているだろうか。
色々な光景が、走馬灯のように駆け巡った。
はその日も何もする事が無いので、横たわって光秀が食事する様子を見ていた。
いつもどおり牢屋番が粥に近い食事を持ってやってきた。
今日は、数人居る牢屋番の中でも一番注意を怠っている兵士であった。
光秀様の目がぎょろり、と牢屋番を見た。
扉をあけて、床にお椀を置く。
ぞんざいに光秀様の猿轡を取った。
光秀様が、満面の笑みを浮かべていた。
猿轡を置いている合間に、光秀様が動いた。
すぐ近くにある首筋に噛み付く。
「ぎゃああああぁぁぁぁぁっ!!」
兵士の悲鳴が地下牢の中に木霊した。
は怖ろしくなって、両手で顔を覆った。
可哀想に。
悲鳴が聞こえなくなってからも暫く目をきつく瞑っていた。
暫くして指の間から除き見ると、光秀様が疲れた、という風に肩を慣らしていた。
その足元には先ほどの兵士が転がっている。
何事もなかったかのように牢屋番の袖の中から鍵束を取り出し、
牢屋からゆらりと出てきた。
「退屈は嫌いです…。」
そのまま、彼は出て行くだろう。
別に
が彼に利益を与えるような存在ではないし、
代わりはいくらでもいるような実力しかないからだ。
「ふふ、貴女を見捨てはしませんよ。」
光秀様は笑いながら
の牢屋をあけて、その上足枷まで解いてくれた。
一体、何があるのだろう?
不安で堪らない。
手まで差し出してくれる至れりつくせりな状況を作り出してくれたので、
はその手を取って立ち上がった。
その親切心が不気味で仕様が無い。
「では、行きましょうか。」
すたすた、と歩き始めた光秀様の後を追って、
は少し走った。
何を考えているのだろう。
ふと、光秀様が立ち止まり、振り向いた。
はもう少しでぶつかるかという寸前のところで立ち止った。
「な、何かございましたか?」
光秀様はいつもの通り、狂った笑みを浮かべていらした。
普通、笑顔は人に安堵感を与えるが、
この笑みは見るたびに不安と恐怖が駆り立てられる。
あの牢番の兵士のように殺される。
そういう被害妄想が頭をよぎった。
耐えられなくなって
は目を瞑った。
自分の血が吸われるところなんて絶対に見たくない。
しかし、首筋に予想された痛みが走ることは無かった。
その代わりに唇からふわり、と血の味が広がった。
鉄くさい、気味の悪い味である。
目を開くと、目の前に居た光秀様はやはり笑っておられた。
「クク……あはははっ…良いですね、やっと生きている人間らしい顔になりました。
私は死んでいる人間は好きではありません。
死ぬ間際の絶望に満ちた表情は生きた人間にしかできませんからね。
しっかり、生きたいと願ってください。」
そう言って、光秀様はゆらりと向きを変えて、牢屋の入り口に向かった。
何度も様子を伺っている限り、今は鍵がかかっては居ないはずだ。
死ぬ間際…。
光秀様は、見方でさえ自分の嗜好を満たす対象と考えておられるのだろうか?
そう思うとぞっとしない。
しかし、
は考える。
自分をこの牢屋から出してくれる人間は光秀様しかいない。
そう思うと、このまま光秀様についていくしかないのではないか、
と絶望的な思考が脳内を占拠してゆく。
こんな牢屋で居たくない。
そう一瞬でも強く願ってしまった。
たとえそれが血と死体で彩られた道であっても、
光秀様についていく以外に選択肢は無いのだから。
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