勝者に余裕あり


躑躅ヶ崎館の庭を、さらりと風が通り抜けた。
明らかに夏とは違う、涼やかな空気の流れ。
それは優しく、しつこい暑さに倦んだ人々の肌をかすめてゆく。



「ようやく、涼しくなってきたようじゃな」
武田信玄はのんびりと言った。
午後の政務を終え、私室でしばしの休息を楽しんでいるところだ。
庭の木々が作った木陰が、縁側に居心地の良い空間を生み出している。
梢にとまった小鳥たちのさえずりが耳に快い。

「はあ」
気の抜けたような相槌が、彼の頭上から降ってきた。
信玄は構わず言葉を続ける。
「暑いのも嫌いではないが、これほど続くとさすがに身体が持たぬわ」
愛用の扇子を開き、はたはたとあおぐ。
「・・・あのう、お館様」
困惑の極みに達した声が、彼を呼んだ。
「どうした、情けない声をあげて」
信玄は笑いを噛み殺しながら、とぼけて聞いた。
「もうそろそろ、下りては頂けませんか・・・?」
いかにも恐る恐る、といった口調で、が尋ねてくる。
「さほど時間は経っておらぬではないか。何を慌てておる?」
「けれど、もう戻らないと」
柔らかなの膝が、もじもじと所在無げに動いている。
「賭けに負けたのはおぬしであろうが。観念してじっとしておれ」
笑いながら、信玄は己の首を少しだけ動かしてみせた。
「きゃっ」
仰天したは、顔を赤らめて彼に抗議した。
「き、急に動かないで下さいまし。驚くじゃありませんか」
「どうした、妙な場所にでも触れたか? ふふ」
「お館様!!」

現在この場には、彼と侍女であるの二人きり。
さほど珍しい事ではない。
信玄が一人で書を読んだり思索にふけったりする事はよくあるし、
気の利くが茶を運ぶ事もまた然り。
ただ、現在の状況はいささか――――人目をはばかるようなものであった。

膝枕。



賭けはたわいないものであった。
「なにやら雲行きが怪しいですねえ。明日は雨でしょうか」
昨日、がそう言ったのが発端。
「賭けるか?」
信玄は晴れ、は雨。
賭けとはいっても、特に何かの品を賭けた訳ではない。
夜が明けてみれば、空は眩しいほどの快晴。
賭けの事などすっかり忘れて部屋を訪れたに、信玄は人の悪い笑顔で言った。
「晴れたようだな。わしの勝ちだ」
戸惑う彼女に『勝敗には対価が必要だ』『賭けは賭け』などとたたみかけ、
強引にその膝に頭を乗せてしまった。
途方に暮れるの様子がたまらなく愉快だ。
まるで眠る虎を膝に抱いているかのように、びくびくしている。
もっとも、実際に信玄は『甲斐の虎』と呼ばれる人物なのだが。



これほどに恐れるならば、本当に喰らってやろうか。
そんな男の衝動を、彼女はまだ知らない。






「えらく力んでおるな。男に膝を貸すのは初めてか?」
「当たり前です!」
扇子を収めてからかう信玄に、むきになっては答えた。
その態度がますます彼を楽しませている事に、まだ彼女は気づかない。
「もっと楽にせい。別に伽を命じた訳ではないのじゃからな」
「と、とぎ・・・!?」
刺激的な単語に、は目を白黒させた。
「男の所作にいちいち動揺していては、嫁にも行けぬぞ」
分別臭い物言いをしながら、傍らに落ちていた彼女の片手を拾った。
「ひゃ!」
緊張に強張った細い手を、無骨な指で弄ぶ。
柔らかい掌の感触を楽しむように。

もっともらしい言葉とは裏腹に、彼女を驚かせ、困らせて楽しんでいる。
逃げ場を失い怯える獲物を、舌なめずりして観賞する。
百戦錬磨の甲斐の虎。
「お、お館様あ」
「どこから声を出しておる」
情けない悲鳴にたまらず笑い出しながら、信玄は諌めた。
諌めながらも、絡める指は止めようとしない。
男女の営みを思わせるその感触に、初心ながどぎまぎしている事には、
まるで気づかぬ振りで。
「少しは落ち着きを持たぬか。大人気ないのう」
「そんな事を言われても」
ただでさえ経験不足の彼女には、男の思惑は読めない。
主の言動に翻弄されるばかりだ。



そよそよと、再び風が入ってきた。
まだ夕餉までには時間がある。邪魔は入りそうに無い。
ならば、もう一押し。

「静かだな」
手を握ったままで、信玄は下からの顔を覗き込んだ。
いつもよりもはるかに近い距離に彼女の顔がある。
手を伸ばせば容易に触れられそうな近さ。
「いつものおぬしは、もっと口数が多いであろう?
 どうした、常日頃のように冗談口をたたいてみせよ」
「無理ですよ、そんなの」
むくれたように、は唇を突き出した。
花びらを思わせる、柔らかで艶めいた唇が扇情的だ。
当人は無意識なのだろうが。

信玄は、彼女の顎に空いた片手を伸ばした。
「えっ」
驚く彼女に構わず、その唇を指でなぞる。ひどく優しい手つきだ。
まるで――――恋人同士が褥で交わす、愛撫のような。
の頬が再び赤らんだ。
このように他人の手で触れられた事が無いのだろう。
「よくよく考えてみれば、膝枕如きではまだ足りぬな」
呟く信玄を、は怪訝な顔で見つめていた。
(今度はどんな無理難題を言うつもりかしら)
瞳がそう言いたげに揺れている。

指先で、の唇を再びついとなぞる。
「・・・なれば、この唇を貰うとしようか」
「な」
信玄を乗せた膝が、驚愕に大きく揺れた。
「何で、そんな事までっ」
さすがに血相を変えたが、声を荒げた。
「一国の主と賭けをしたのじゃ、この位は当然であろうが」
けろりとした顔で言うと、信玄は繋いだままの手を強く引いた。
逃げ出す暇は与えない。
「きゃ」
大きく体勢を崩したの半身が、信玄の上に覆いかぶさってきた。
彼女の髪と香りが、ふわりと彼を包み込む。
「往生際が悪いぞ、
信玄はとびきりの低く甘い声で、彼女の耳元に囁く。
その声が女性にどれほどの威力を発揮するか、承知の上だ。
「・・・・・・」



しばし躊躇った後、はおずおずと顔を寄せてきた。
羞恥にその頬は赤く色づいている。
「・・・お館様」
「どうした。早うせい」
信玄は平然と急かした。
その声に、もう今のは抗えない。



ゆっくりと、震える唇が信玄のそれに重なった。



素早く離れようとする頭を、抜かりなく信玄の手が引き止める。
「・・・んっ」
苦しげな息は、瞬く間に信玄の舌に絡め取られてしまう。






遠慮無く、信玄はを味わった。






「――――お館様は天候が読めるのですか」
と賭けをする前、偶然に勘助と天候の話をしたのじゃ。
 あやつは博識だからのう、容易に明日の天気も予測しておったわ」
「・・・で、では、最初から賭けに勝つおつもりで」
「勝てぬ戦はせぬ。それが武将というものよ」
「お館様!!」



武田信玄、侮りがたし。